百二十九 濠端 (御園生探偵)
軽井澤さんと僕は、二重橋前の赤煉瓦ビルを出ると、ぼんやりとした。なんとなく青空の方角を求めて、皇居の側に歩みを進めた。しかしぼうっとしたのは僕だけで、軽井澤さんは
「御園生くん気がつきましか?」
と、問うてきた。
「えっ。何がですか?」
僕は、会長室の待合にいた太刀川龍一という東大出の経営者の名前をかろうじて思い出して、彼の周辺にあった当時の賑やかな富裕層のこと回想していたのだが、軽井澤さんはその話題ではなかった。
「御園生くん。江戸島会長は葉書を見て少し表情を変えましたね。」
「え、ほんとうですか?」
僕は、少し驚きつつ、江戸島会長が葉書を見た場面を思い出していた。意味不明の葉書をいきなりテーブルに並べられた江戸島会長の対応は一般的なものにしか僕には感じられなかった。しかし軽井澤さんは、
「わたくしには、江戸島が、葉書を見つめながら文字を追いかけているように思えたんです。」
と言い切ったのである。
「文字を、追いかける?」
「ええ。やはりこの葉書は一連の文字列なのだと思うのです。つまり、六日の消印のものが一つ目、九日の日消印のものが二つ目の単語になるんだと思います。それがどうしても知らない人には見えず、知ってる人にだけ見えるようになっている。」
六日 O C C N E E T R
九日 A A U W K S
「でも、江戸島会長はまさか、知らないですよね。それを。」
「ええ。普通は知らないはずです。でもなんだか、引っ掛かるのです。話している間も、わたくしには、彼が驚くところと質問すべき場所が少しずれているというか。つまり、心ここにあらずだったのです。」
「……。」
「そもそも、わたくしには違和感の前提があります。」
「前提ですか?」
「ええ。彼が、我々のような人間のアポを朝一番に用意したことです。」
怪しい脅迫めいたリスクの話を秘書経由でする軽井澤さんの作戦がうまくいったからだけなのでは、という言葉を僕は喉元で止めた。
「だってご覧になったでしょう?待合室を。その後もあれだけ待たされてる人がいるんですから。わたくし達のアポが朝の八時に後付けでねじ込まれたとしか思えないです。そうなると明らかに不自然です。」
「……。」
「江戸島会長は、我々の言うような話に関わる過去があるのかもしれない。」
「結構、大胆な仮説ですよね?」
「ええ。ですが、風間と守谷が江戸島と検索する理由がある限りは、大胆でもないかもしれません。」
僕は元々、風間や守谷のような人間と江戸島会長のような人間の暮らす世界は違うと考えていた。住む世界が違うものが関係するとは思えない。知り合いも共通の人間もないはずである。僕は軽井澤さんの仮説に簡単には肯けずにいた。
我々は折り合わない見解を紛らわすように、漠然と青空の広いほうに向かった。結果、皇居に向けてゆっくり歩いた。夏のあとの午前だった。陽光が真っ青な堀端の芝生をサトウキビ畑のように光り輝かせていた。
「大胆かもしれません。これは仮説なのですが、多分彼にも、守谷と風間のように、文字が見えるのだというと、いい過ぎますかね?」
「江戸島会長にですか?」
「江戸島は多分、何かを感じたのでは無いか。葉書を見ていた眼差しが気になりました。そのあと、我に帰ったように、知らぬ存ぜぬとは言いましたが、わたくしにはむしろ芝居じみて見えたのです。」
そう言い切ると、軽井澤さんは、手帳を広げて文字を書き始めた。そしてお濠端で少年のようにしゃがみ込み、その紙を破ってアスファルトに切れ端を並べ出した。。
「この六文字を見て、何かイメージが湧いたりしませんか??」
井 園 澤 生 御 軽
なんのことだろう、と、眺めてから、しばらくして、ああそうかというのが、空から落ちてきた。
「そうですね、我々の名前ですかね。」
「そうです。最初はなんのことかわからないけど、少しして脳裏に落ちてくる。そして一度見て順番が脳内に出来上がると、むしろ、その文字の方が先に感じるようになって他の言葉は見えづらくなる。」
「…まあ、この場合は名前ですから。」
「そうですね。ただ同じように六枚、六文字の文字ではあります。」
「でもーー。」
「軽井澤や御園生という名前を、もし全く知らない場合、いまの我々の脳裏に見ているものは見えないと思いませんか?」
「……。」
「つまり、共通の前提がある場合、他の人が見えない物が見えるという意味です。もしそれが、名前よりももっと記憶に残るような言葉だった場合、例えばその過去の犯罪に関わるようなものだった場合、そのトラウマが必要以上に文字を見せてくる、という気がするのです。犯罪を犯したことがないので、これはわたくしの仮説です。うまく言えませんが、わたくしには江戸島のあの目の動きが、何かを追いかけたように見えたのです。」
「……。江戸島会長が犯罪者ということですか?」
「いや、そうまでは思いません。でもなにかの関係者なのかもしれません。目の動きが、なにか文字を追いかけたようにも思えて。」
「……。」
「考えすぎかもしれませんが、私には不思議に感じたことがあるのです。江戸島会長は最初にこの葉書を見たときに非常に奇妙な顔をしました。その後に六日消印のものと、九日消印のものとを別々に、それぞれじっくりと見つめました。奇妙だと思ったのはその後です。と言うのもある一定の時点で、葉書を見つめるのをやめたのです。」
後半は葉書から話題が離れたからではないですかね、という言葉を僕は喉に止めた。軽井澤さんは話し続けた。
「葉書を見るのをやめた、のには二つの可能性があると思います。一つは奇妙な葉書そのものに興味を失ってしまったということです。見ても意味がないし、もともと興味もないという事です。」
僕はそこは素直にうなずいた。その通りだと思ったからだ。
「もう一つはこの十四枚の葉書の意味が読み取れてしまったせいで見なくてもよくなった、ということです。わたくしは後者に思えたのです。少なくとも会話の中では、江戸島会長は葉書に最後まで興味を持っていました。それなのになぜか葉書を見つめ直さなかったのです。つまり我々と違い何度も見つめ直すと言うことをしないのです。われわれはこれまで幾度も幾度も、この葉書を見つめたでしょう。それは答えが出ないから見つめたのです。しかし答えが一回見えてしまったものにとっては、こんなものは見つめ直す必要の無いものになるのです。なぜなら既に脳裏に並んでしまえば、見つめて並べ直す意味がないからです。その証拠に、風間も守谷もこれらの葉書を、大事に扱っていない。」
そこまでいうと軽井澤さんは無言になり、また昨夜までの暗く青い顔に戻った。僕はそこで軽井澤さんの言う通りだと、賛成をしてあげるべきだったかもしれない。
軽井澤さんと僕は、押し黙ったまま濠端から大手町二重橋のオフィス街に戻る方向に歩いた。
軽井澤さんの弁舌には一理あるかも知れないと思いつつ、僕はなんだか気持ちが乗らないままだった。あの日本を代表するX重工の会長のような人間が、猫の死体とか歌舞伎町のあの守谷のような場面とつながる気がしなかったし、軽井澤さんが言うような細かい表情のアヤも自分には殆どわからないままだったから...