百二十一 娘 (軽井澤紗智)
家族で旅行などに行った記憶は少ない。品川の水族館、あとテレビ局の夏祭りと、サッカーの試合のチケットを貰って母と観に行ったくらい。一人娘としては、サッカーよりフィギュアスケート観戦の方を所望したけども、なぜか貰えるのは大抵サッカーのチケットだった。
そもそも軽井澤家は家族行事そのものが少なかったのだと思う。父と母は、二人とも仕事中心の生活だったから、塾や習い事から帰っても二人が一緒に家で待っているなどということはなかった。
今日、紗千は夜明け前に目が覚めた。
夏の終わりとはいえ、まだ五時台ではすることがなかった。
それだけの理由で、大学の一限が始まる前に、昨夜から引き続き既読無視のままの父に会おうと青山墓地裏の事務所に顔を出してみた。昨夜から連絡がないので、もしかしたら、事務所で寝落ちでもしてるのか、と紗千は考えたのである。
広尾、乃木坂、外苑、どの駅からも遠いその事務所は、都心部の忘れられた場所のような隘路をたどる、風水が決して良いとは言えないだろう青山墓地の裏手の、崖の下にあった。歴史を感じさせる昔の石垣の名残がその崖を頼りなく支えている。大雨で土砂が崩れたら大変だなと思いながらその前を通って事務所の前に立った。
事務所に来たのは久しぶりだった。
やはり、父はいなかった。
事務所に呼び鈴は無い。明確に探偵事務所だという説明もない。小さくドアに相撲文字のシールで軽井澤探偵通信社と貼ってあるけど気がつく人はいない、と思う。来客を歓迎してるとは到底言い難い、その事務所を眺めながら、自分の中にもそう言う遺伝子が流れているなあと感じる。紗千は、目立つ看板が好きじゃない。
見た目は母親に似ている、とよく言われる。けど、父と母、二人のそれぞれの部分が自分に共存していて、こういう日陰に事務所を構える父の趣味は、紗千にも流れている。河川敷で暗くボクシングするのもそう。父と見た目は似なかったけど。まあそれが子供って言うものなのだろうか。性格は、どこか父に似てきたのかなと思うことがある。
仕事ばかりしてきた父と母だから、お互いの理解が難しかったのだなと、突然思った。仕事をすればするほど譲れない誰にも説明できない場所ができるんだろうか。
「どちらさまですか?」
背中側から声がして振り返ると、その人はじっと私をみていた。急いで事務所の前を去って過ぎようとする紗千に、気さくに話しかけた。若々しくスーツ姿の青年だった。お探しの何かがあるような場所ではないという言い方だった。
「いえ、あの。」
まさか、軽井澤の親族だとも言い出せずにいると、その青年は少し怪しげに、わたしを見ていたけれども、
「西麻布からこの辺りは迷いやすいです。乃木坂駅はあっちです。少し遠いけど。それでは失礼。」
とだけ言って、急いだ風情で、まだ誰もいない父の事務所の鍵を開けて中に入っていった。背の高い好青年で、早朝からしっかりスーツにネクタイまでしていた。
軽井澤探偵通信社であんな人が働いてるなんて紗千は知らなかった。