九 早朝の電話 (軽井澤新太)
一の橋が麻布十番から始まり、二の橋が仙台坂下、三の橋、古川橋で右に大きく曲がって四の橋になります、と説明してピンとくる人は東京の地図マニアの方かもしれません。四ノ橋のつぎが天現寺橋で慶應幼稚舎や広尾の高級住宅地に連なり、川の名前は古川から渋谷川へと地域ごとに名前を変えていきます。
会社を辞めて家族と別居を始めた時に、わたくし軽井澤はこの四ノ橋に住み始めました。偶然空室だったマンションに住んだにすぎません。あまり馴染みのない場所が良かったのと、不動産屋から、地元の四ノ橋の商店街が便利だと教えられたからでした。事務所まで歩くにもちょうど良い距離なのです。
四ノ橋の商店街は、川から白金台に向けてまっすぐ走る細い路地です。その中程に八百屋があり、その隣のマンションの三階でわたくしは暮らすことにいたしました。白金といっても白金台とは違います。この辺りは、六本木から広尾恵比寿と高級住宅街に囲まれる狭間になっていて、何故か下町風情が残るのです。商店街は昔ながらの老夫婦がやっていることが多く、墨田区だ葛飾区だの下町よりも下町らしい香りを嗅げるかもしれません。
庶民的な商店街を見下ろす三階の小さなベランダでタバコを吸うのがわたくしの、小さな喜びでした。そんなどこにでもある、中年男の独り暮らしの一室でございまして、そんな一室に、朝から携帯電話がこれでもか、というくらいに鳴ったのでございます。
「さっき行ったよ。あんたの事務所とやらに。いい場所にあるのだな。」
「ど、どちらさまですか?」
「風間だよ。もう忘れたのか?登録しろよ」
「えっ?事務所に行った?青山墓地のですか?」
「ああ。青山墓地の裏手の、軽井澤探偵通信社だ」
ホームページに住所を載せているのですから、やむを得ませんが、風間のような人間に約束なしで来られたのは想定外でした。
「それは、本当ですか。わざわざありがとうございます。ちなみに、どうされました?」
「もう十時だ。ずいぶんゆっくりだな。」
「昨夜遅くまで、調べ物でしたので。それより突然どうなさりましたか。」
風間は電話の向こうで深呼吸のような間合いをさせて、
「また来たんだよ。」
「またともうしますと?」
「猫だよ」
あえて、死体と言いませんでした。しかし、生きている猫ならば、歩いて去るでしょうし、わざわざ電話をかけては来ないはずです。
「また、ですか。」
「あそこ(西馬込)にはもう住めない。とりあえず引越し先を探している。」
「そうですね。引越しをお勧めいたします。」
「葉書の残りをポストに入れた。あれが全部だ。とにかく、葉書を俺に、送った奴が誰かをまず知りたい。どうか前向きに考えてもらえないだろうか?」
少し言葉に詰まる間合いがありましたが、わたくしは、それよりも、昨日、間合いを見て言えずにいたことを言い出しました。
「二十万円の先払いはいかがですか?」
「ああ、それだな。」
「はい。恐れながら、我々もボランティアではないのでして。」
「わかっている。金はある。ただ、まだあんたらから何も、もらっていない。勿論、方針など貰え次第、金は振り込むさ。なので葉書の残りを一度見てくれるか?」
「葉書ですか?昨日お借りしたものと何が違いますか?」
「なにがちがう?と言われても難しいが。」
「同じものが他にあるのですか?」
「まあとにかく見てみてくれ。あの葉書は一枚じゃないんだ。何枚もある。その全部をポストに入れたんだよ。それを見れば色んなことが、すぐ、わかるはずだ。」