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星空出版 HOSHIZORA PRESS

ミステリー・連載

パラダイム

下代沢侯二
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第 118 章 百十五 バーボンボトル (銭谷警部補)

百十五 バーボンボトル (銭谷警部補)

 わたしと金石の目の前で、その母親は泣いていた。
 六本木ヒルズで死んだ女子大生の母だった。
 わたしは子育て、というものを知らない。子供というのは世の親にとってどのようににやって来て、どういう風に失われるのか。そんなことは子供のいないわたしには想像ができない。
 泣き崩れる母親を前にわたしは焦ったのを覚えている。
 隣にいた金石が目に涙を溜めていたのだ。
 娘を失った母は、殆ど意味の同じ言葉を繰り返した。子供の頃の話。お祭りで浴衣を着たという写真。風車を手に持ってピースサインをする少女の隣に、今目の前にいる母親と同一人物とは思えぬ、若く闊達な女性がいる。変化は年齢だけではない。愛する娘がこの世に無い事やその未来が存在しない事が母親を幾年も老化させていた。それでも運動会の写真、入学式、卒業式の写真、どこか温泉街での写真、海水浴の写真などを見せながら、母親はメディアで言われているような事実はひとつもなく、ただただ親孝行の娘だったと繰り返した。しかしながらそういう思い出が語られる度に、取り戻せぬ過去と、殺された現実が我々の目の前で存在を強めた。
「すいません。」
 金石は、そう言うと幾度も言葉を出そうとしては噛み締めて呑み込み、失語者のように、身体を痙攣させていた。隣にわたしがいる事など忘れられていた。
 殺された女子大生の職歴の疑惑を暴露記事にしたのは大手の新聞社だった。正確には、風俗産業にいたわけではない。しかしなぜか疑惑的に、そういう情報があふれた。わたしは、これは意図的だと思った。メディアがやる手口としてである。
 女子大生は写真で見てもはっとするほど美しい人だった。そういう女性が富裕層の集まる場所で何かをしていたという疑惑、幾度となくその場所に繰り返し参加(アテンド)したという疑惑は、テレビを漠然と眺める視聴者を立ち止まらせやすいことはわたしが見てもわかる。真偽は別として、それらは良く回る記事だった。メディアは報道の顔をしたまま、ゴシップを売る時が一番稼ぐ。誰も憲法を読むことに興味はないし、判例や薬品の原材料までを調べた貴重な報道は視聴率などをとらない。下世話でも稼げるニュースは繰り返し使われる。太刀川の周辺で賑やかだった報道は、いつの間にか女子大生の性的な記事ばかりに収斂していった。当初は、古い日本の産業構造と、四つ相撲で対決する新しい時代の寵児として存在した太刀川龍一という人間がいた。その報道の当初では双方の言い分は比較的平等に議論された。八十歳を過ぎた経営陣にインターネット対策法案は解らないだろうとか、日本は若者にチャンスがなさすぎるというような、見方によっては有意義な議論もあった。しかしいつの間にか、それらがゴシップとどうやら性的な状況の中で亡くなった美しい女子大生の話題にすり替わって行った。議論は本質を失った。そういうメディアの恣意的かもしれない変化に世の中は全く気が付かないままーー。
 ジャーナリズムとは呼べない恥ずべきものに限って、まるで自らが正当本家だと言う顔をする。さまざまな真実不明の修飾が記事に混ざる。彼女の美しさと卑猥な記述たちが、相乗するようにしてクリックの数だけを増やし資本を増強していく。そして、真実から遠ざかっていくとき、世の中はそれに気が付かない。
 結果として六本木事件はある世論へと変貌した。女子大生の死は自業自得だ、という世論だ。若い女子大生が、賑わう夜の街に憧れ、薬物のある一室に自ら赴き、事故死を起こした、という文脈が世の中の合議のようにされた。その部屋を主宰し、その部屋にいたかもしれない人間たちの問題は消え去ってしまった。いつの間にか報道機関やその周辺のメディアは、不思議とその足並みを揃えていった。
 そうして示し合わせたように、その熱の変化が捜査本部に落ちてきたのだ。わたしと金石のふたりを置き去りにしたまま、警察組織は多くの変更を始めた。
 早乙女が<立派な人間は自分だ>と言う顔をして、わたしを呼び止めたのを昨日のように思い出せる。クソのような早く忘れたいものに限って、いつになっても心から消えないことが多い。
 事件の当日の救急車のサイレンが脳に回ってくる。パトカーと救急車が一緒の時は、まだ死亡が確定していない時間だ。死んだと言われた直後のあの時間、六本木ヒルズのエレベーターのカメラは何故か止まっていた。彼女が生きていたかも知れない時間が残酷に過ぎた。その間にあの部屋に関連した多くの富裕層関係者は、彼女の人命よりも自らの社会的地位や風評を守るための手順をしていたのだ。
 本当は取り調べを受け真実を追求すべき大勢の人たちが煙のように消え、証拠も消えたのである。そうしてメディアはそれまでのことを忘れたように次の事件に向かった。早乙女は捜査本部の解散は当然のことだろうとわたしに告げ、事実上警察は捜査を打ち切った。
 金石が泣いていた理由は話したことがない。真実の目の前で何もできずに終わった不甲斐なさに対してだったのだろうか。いや、もしかすると本当はやり方によっては彼女を死なせずに済んだという事だったのか。内偵を続けた中で、一瞬の掛け違いで、全ての扉がしまったことを後悔しているのかもしれない。
 過去の映像と併せて、頭蓋骨を刺すような痛みが断続的に続いている。
 草の香りがふと耳元に過ぎった。
 星空の手前に顔面を覆う雑草がもたれかかっている。
 どうやら河川敷の草むらで眠っていたようだった。
 わたしは目の周りの湿り気を手の甲で拭った。
 最近人がいないときに一人で飲んでいると、どうしようもなくなってしまうことがある。人間として恥ずかしい、不気味な中年男の末路がここにある。感情を酒で混乱させつつ、高めながら、過去を後悔して、また酒を煽っている。ただその目の周りの湿り気は、わたしだけのものではない。金石のあの涙の続きが混ざっているーー。だから諦めがつかない。過去として切断ができない。結果、意識を失うまで飲みたいという願望が飲酒の後半にやってくる。
 ToZ
 二流の作業はだめだ
 二流だけが組織にのさばる。
 基本を思い出せ。
 遺族の気持ちになるべきだ。
 K
 河川敷での眠りは深かったらしい。
 深夜何時か分からない。
 隅田川では見ることのできない星が、金町まで下った江戸川では少しだけ見えた。切れる寸前の街灯が、空の星と似た点滅をくりかえしていた。
 ウィスキーのボトル瓶だけが、私の<手のひら>で唯一明確に物質がそこに存在する感覚をさせていた。その硬い部分に縋るように、わたしは強くそれを握りしめていた。

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