百十二 本郷逍遥 (銭谷警部補)
「そうして金石警部補は、突然刑事を辞めたのですね。」
わたしは過去をむさぼるようにして無心に喋っていたらしい。無心になれたのは、どこかでこの石原という警察官の仕事に敬意を持ち始めていたからだ。年齢は関係ない。一定の仕事を行う者同士に、最も重要な条件==仲間への上下などない敬意というものを、わたしは久々に思い出していた。
目の前に石原の黒目がちな瞳があった。うつくしく墨を塗った宇宙のように黒く清凉としていた。
「その後、金石警部補、いや元警部補からは、なにも連絡がないのですか」
わたしはその質問に黙った。黙ったことが答えになる。
「無くは、無いのですね?」
「いや、正確にはわからない」
「金石さんに面と向かって会ったりしたのですか?」
「会ったことはない。」
「では、ネットか掲示板とか?」
「そういうものは使い方がわからない。」
「……。」
「メールが届く。」
「えっ。メールですか?本当に?」
石原は驚いた。わたしが私用のメールを昨日に至るまで持っていなかったことは、湯島の喫茶店で議論をしたばかりだ。ということはつまり、私用ではなく、警視庁のメールに行方不明の金石元警部補から届く意味になるのだ。行方不明で、情報を持ったまま消えたかも知れない人間が、どうやって堂々と本庁のサーバーにメールをしてくるのか?石原の小動物の目が野生のような鋭さを増した。
「いや、正確には本人ではない。いや、本人かも知れないが本人だとは確認ができたわけではない。」
「どういうことですか?」
「イニシャルだけKと名乗るメールが、毎回アドレスも違う形で届くんだ。アドレスは毎回異なる。」
「毎回?」
「一過性のアドレスなのだと思う。ワンタイムなんとかという。」
「ワンタイムパスですね。」
「ああそうだ。それは、迷惑メールに溜まっている。」
「どんなことを?」
「取り留めのない内容だ。はっきりいって。」
「とりとめのないのになぜ金石元警部補?と?」
わたしはそこで、息を整えた。
「内容が自分と金石しかわからない微妙な内容だからだ。ただ、当時の捜査の具体的な情報があるわけではなく、二人で飲んで話した考え方などが、やんわりと反映している、とでもいうべきかもしれない。本を読めとか、説教じみた内容が多い。」
「本を読め、ですか。よく、一緒にお酒を飲まれたのですか」
「数を重ねた意図はないが、仕事の終わりに酒場で落ち合うことが多かった。」
「なるほど。」
「メールには、捜査の内容などは記載されたりしない。まあ、そんなものが書いてあれば、ここで勿体ぶって話すようにはならないからな。」
わたしは警察の板電話を取り出し、そのメールの一部を見せた。言葉の内容で見せるものを最初選んでいたが、石原の真剣に画面に食い入る横顔を見ているうちにそう言う利己的な配慮は減っていった。どこかで彼女を世代を越えて大切な仲間に感じている自分がいた。
ToZ
本末の転倒。
飲みすぎは、やめておけ。
若者に迷惑をかけないようにしろ。
K
ToZ
ニヒリズムとかではなく、しっかりと実現をしてくれ。
ニーチェを読んでみるのもお勧めする。
K
ToZ
こどく。
被害者の孤独。
そのとなりに自分がいるのか?
ましてや、被害者と加害者の、その対立構造などを作っている奴らに加担していないか。
K
ToZ
文学的に言えば、
百の事件には
百を被害者がある
一つとして同じ事件はない
また、
加害者にはまだ未来があるが
殺人被害者には、永遠に未来はない。
言ったはずだ。
K
ToZ
段々とわかってきただろう。
海の先に、人間は、ゴミを集めて大地を作る。
嘘の大地を作る。
戦前、空襲で焼かれるなどと想像して
街を歩いた人間はいない
K
石原は首を傾げた。
「不思議なメールたち、ですね。」
「……。」
「金石元警部補以外の人間がそんなことをすることは考えられますか。」
「考えられないーー。わたしにこういう文面を送ることに、意味を持つ人間が、他に見当たらない。」
そもそもこの文面は、金石と私が幾度も会話した会話の続きになっているようなことが多い、とは言わなかった。
「すいません。よければ、これ、なにかのヒントになると思えたので。写真を撮るのは申し訳ないので、ノートに書いていいでしょうか?」
といって石原は大学ノートを取り出した。最初の日に上野でわたしが説明した捜査ノートが既に慣れた手つきで構えられていた。
「もちろん、構わない。」
石原は黙って、私のメールを確認しながら、メモを取った。ずいぶん手が早いらしく、あっというまに書き取っていた。
「もう?」
「はい。速記が得意でして。」
石原は笑った。その笑顔は、からりとして、金石の送ったであろうメールの暗鬱な内容を素通りさせてくれる配慮のように思えた。
わたしは石原にメールを見せていたけども、それはあえていえば、自分の孤独を告白することに似ていた。金石と交わした会話は実に具体的で、刑事の自負の強い感傷的な言葉が多く、その内容をもってわたしは、それが金石に違いないと言っている。でもそれは、特定の二人の人間の密室的なやりとりの開示だった。不気味に例えれば、恋人しかわからぬ思い出を語る言葉を持って、送付元を恋人と特定しているようなことでもあった。石原はその周辺には触れないでいた。むしろ内容を飛ばして、金石の失踪や、送付元が毎回違うメールの奇妙さについて、話題を向けてくれた。
「消去法で、金石元警部補しかいない、ということですね。」
「そうだと思う。」
「毎回アドレスを変える。」
「ああ。」
「迷惑メールに入るような、送信元である。」
「すべて自動的にそうなる。」
「これが、定期的にと言うよりは、ある時期に一定の量が送付されてくる。」
「うむ。」
「内容は、いつも、なんと言うか曖昧な、しかし銭谷警部補と金石元警部補の間でなければ成立しない言葉である。」
石原は、正しく把握して、わたしより明確に整理をしてくれた。我々は歩きながら、もう少しメールの周辺について会話した。殆ど、石原巡査のペースで質疑が行われた。わたしはただ彼女の質問に答えるのみだった。
いつの間にか、再び本郷三丁目の駅まで戻ってきていた。我々には多くのことを喋った後の、奇妙な連帯意識があった。石原は一度本庁に戻るというので、改札まで見送った。駅の奥に消えていく石原には手を振らず、目だけ残して送別した。
伝えたことが、どう変化していくのかは解らない。
早乙女課長や、その他の人たちと石原に特殊なつながりがあるとは思いづらかったが、わたしは仮にそうだとしても良いと思った。彼女の仕事の姿勢や、能力のようなものに、わたしは懐かしい気分を持っていて、そのほうが大切なものに思えた。危ない橋だろうが、被害は自分に及ぶ程度で、何か重要な真実が遠くなっていくわけでもないはずだと、自分に言い聞かせた。早乙女に漏洩するのであれば、それを察知した金石がメールを送らなくなるだけだろう。
わたしは本郷では電車に乗らず、湯島の千代田線まで再び歩いた。
そのまま一人で、いつものように、幾つかのことを整理をしようと思った。突然わ...