百八 Kの説明 (銭谷警部補)
本郷三丁目駅の改札、古本文庫置き場の前だった。
石原里美はそれまでとは明確に表情を変えてわたしを見つめていた。
「今回のことでいろいろなことを教えていただき感謝しています。ただ、銭谷警部補が私にあえて言わないことがあるのはなぜですか?私なりにこの仕事に、自分の時間を費やし、刑事としての仕事を成立させたいと思っています。」
「そうだな。」
石原の言うとおりである。金石のことを話題として避けてきたのはわたしだ。
「すまん。」
「いえ。」
「金石のことだよな。」
わたしはその言葉を置いた。精一杯、声を振り絞ったのだが、声は小さかった。
「いろいろ事情があるのかもしれません。言いづらい事情も。ただ、一切説明の中に出てこないのも気になりました。」
わたしはそれでも石原が配慮した言い方をしていることに感謝した。
「今、話した方がいいか。」
「お任せします。もしできればお願いします。」
「このまま、歩きながらでもいいか?」
我々は駅を出て、商店街から本郷の大通りに出た。
「すまん。ここまで話さないでいたことは、まず、申し訳ない。この通り謝りたい。」
歩道を並んで歩きながら、わたしはそう侘びた。本当は、面と向かって頭を下げたかった。今朝の金町駅での銀色の二本の線路が、本郷通りのガードレールの錆びた鉄となぜか重なった。自分自身への自己嫌悪が再来する。死にたい気分というのは、突然絵の具をバケツの水にバラ撒くように、広がる。
思えば、朝の最悪の気持ちを切り替えてくれたのは、石原からの電話だった。そうやって今日は始まっていた。
「機会を待って、話さなくてはならないとは思っていた。」
「それは、私の首検分みたいなことですか。」
その言葉はきつかった。
「そうではないのだが、言い訳はする気はない。」
「いえ。」
「すまん。」
「でも、話しては頂けるのですね。」
うまく話す自信がなかったし、実際にどこから話せば良いのだろうか、というのも悩んだが、ひとつひとつ順番も気にせずに言葉を並べることにした。今石原は太刀川の事について背負って(しよつて)いる。仕事には<背負う>仕事と、<流す>仕事の二種類しかない。仕事を背負った刑事に順番は要らない。不明ならその都度訊いてくる。
わたしは小板橋の前で披瀝した自分の説明能力のなさを気にせず、思うままに言葉を並べた。石原に向け、概要を繰り返しながら金石の周辺で触れずにいたことを逃げずに話す。力を抜いて、言葉を預けるように。六本木事件の全体を紐解くように、避けてきた金石を適切に登場させて、なぞった。
「…そこで、つまりある時期に警視庁に力が加わった。少なくともわたしもそう思っている。」
「……。」
「ただ、その確信をしていたのは、わたしよりむしろ、金石だった。金石はそういう存在だった。つまり、このわたしより遥かに情報人脈に長けていた。殺された死体から捜査を始める専門の自分より、捜査二課らしい経済的な人脈にも強く、またわたしも知らぬような情報源や、捜査方法を持っていた。」
わたしは、言葉を集めては、書き順も気にせず並べた。
石原は黙って聞いている。わたしは、うまく伝わらない気がしたところでもう一度話を戻した。六本木事件をなぞり、そして金石と一緒に組んで、捜査した流れまでなぞる。気がつくと、同じ言葉を繰り返している。
うまくまとまらないわたしは、一度空を仰いだ。呼吸の乱れを整えるように、一旦立ち止まって、石原を見つめた。
「すまん。」
「いえ。」
「こういうことの前に、大前提から話したほうが良いかもしれない。」
「大前提を、ですか?」
事実をいくら並べても伝わらない理由に、わたしは気がつき始めていた。
「ああ。事実の説明を重ねても、いちばん大事な部分がうまく伝わらない。すまん。」
「事実と別のことですか?」
「説明が得意ではない。わからないことがあれば、どこでも止めて質問してくれていい。」
「わかりました。ただ、一度で理解するように努めます。」
「どこから話していいか、うまく言えないが。」
「はい。」
「例えば、その、そもそも論だが、警察は正義の味方の側だ、という前提があると思う。」
「はい。そう思っています。」
「そうだ。それが、常識的な事実だ。でも、警察の中に万が一、犯罪者がいたらどうする?」
石原は少し歩調を変えた。
「まあ正確には犯罪者じゃなくても良い。たとえば、犯罪者のお友達や親族でもいいし、犯罪者が捕まると色々困る共犯者のような人間でもいい。そういう人間が警察にいた場合だ。」
「……。」
「更に、そのそういう人物が自分の上司だったらどうだろう。いや、更に、警視庁の雲の上の上層部だったらどうなると思う?これは具体的な話ではなく仮定の話だ。」
わたしは、そこで呼吸を置いた。金石のことを話すにはやはりこういうことを話すべきなのだろう。
「想像できませんが、多分、その人物を適切に逮捕したり処分するのではないですか?」
「残念ながら、違う。」
「ちがう?」
石原は少し驚いた声をした。本郷通りを我々を追い越して御茶ノ水の方に向かうトラックが地面を揺らした。
「少なくとも金石は、違うと言うだろう。」
「金石警部補、いや元警部補がですか。」
「そうだ。やつはその点を明確に、指摘するだろう。例えば、数学の期待値を使って、実際に過去の警察の歴史を紐解いて語ってくる。」
「どうしてですか?」
「我々警察が【個の人間】ではなく組織だからだ。」
「組織だから?」
「若い頃は組織のなかにある異常な性質というものに気づかない。」
年長者の言葉として、わたしは悲しい事実を伝えるように、声を小さくしていた。石原は純粋な若者の表情でわたしの次の言葉を待った。
「少し法律的な問題に入るがいいか。」
「はい、もちろんです。」
「法律というのは、一人の罪を裁くことが可能にできている。」
「そう思います。」
「だが、実は若干の矛盾がある。法律は、罪のある人間を裁くのはうまくできているが、罪のある組織を裁くことはうまくできていない。対応する法律が曖昧なんだ。」
石原は首を傾げた。わたしは言葉を探して、
「たとえば、組織が犯罪を犯しても組織に懲役が下るわけではない。とある会社が、懲役五年、のようなことにはならない。その中で、犯罪をした人間というものだけが選ばれて、選ばれた人間だけが罪を負う。」
「……。」
「例えば、捜査一課が処罰されることはないし、いくら組織ぐるみの犯罪があっても警察庁のどこかの部署・組織を懲役させることはできない。あくまで罰を受けるのは個人の人間だ。」
「組織でなく、個人の人間が罪を受けるというのは理解できます。」
石原は必死に理解しようという表情でわたしを見ていた。
「ありがとう。人間が犯罪を犯す確率はどれくらいだと思う?」
「はい。おそらく1%から0.1%ほどですかね。」
「凶悪事件で一万件、刑事犯罪全体で百万件ほどだろう。毎年だ。つまり単純な概算で、十年毎年足しあげればーー 」
「凶悪で十万人、刑事犯罪全体で千万人。まあ、再犯を数えなければ、ですが。」
「すごい数だ。」
「はい。十人に一人が犯罪をしている計算ですね。」
「警察官も同じく人間だとすると計算が合...