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星空出版 HOSHIZORA PRESS

ミステリー・連載

パラダイム

下代沢侯二
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第 107 章 百四 思い出(軽井澤紗千)

百四 思い出(軽井澤紗千)

 一昨日に紗千が送った父へのメッセージには返信は無かった。紗千は返信さえないのが少し気になった。
 大学の午後の授業が突然休講になったので、午後、多摩川に向かった。
 ボクシングでもしていたら、父が来るような気がしたのだ。たまに、自分は父と会いたくなる。それを正面から言いづらい性格なせいで、この多摩川のジムは重宝している。練習した帰りに、夕食を一緒にしたり、少し話すだけでもいい時ってある。家族の感じがする。
 父はいなかった。
 なんとなくジムの外に出たくなって河川敷を走った。
 紗千は走りながら同じように河川敷を走った昔を思い出した。
 多摩川ではなく、別の街だ。
 茨城県の方角、たしか取手行きの緑色の電車の駅を降りて、柴又の帝釈天の方に伸びる京成電車の横の道をおおきな川の河川敷まで歩いた。その先に父が通っていた古いボクシングジムがあった。母が仕事で遅くなるからと急に言われたのがきっかけだった。
 まだ父が会社を辞める前、いまから十年以上前、小学生のときだ。いつもの通り母から送られてきたスマホの地図を頼りにそのジムに辿り着いた。
 父はあの頃はテレビの仕事が忙しくてほとんど週末でさえ会えなかった。だから父に会いにいくのはいつでも楽しみだった。
 その日、ジムにつくと父がいた。
 ところがその日の父は、いつもの父とは違っていた。
 いつもと違う人間が、その日は何かに取り憑かれたように、大きな吊された茄子のような袋(サンドバック)を叩いていた。顔が別人だった。恐ろしい顔をして茄子の袋を殴り続ける不気味な大人がいた。どう考えてもそれはいつも優しく紗千に話しかける父とは違った。怖くて話しかけられず紗千は外に逃げた。堤防から坂を降りた中段の河川敷でぼんやりしていた。いや、心を落ち着かせるために、ずっと川を見ていた。川が左から右に流れていくのがわかった。きっとあっちが東京湾だろう。
 何かが怖い気がして、逃げて、ずっとひとりで泣いていたらしい。
 前後の記憶も思い出せない。
 しばらくして、
「なんで泣いてるんだ」
 父の声がした。父に背中から抱きしめられた。その温もりは思い出せる。顔を見せたその時の父は、あの暗いサンドバックを叩く印象が綺麗に抜け落ちていた。父はいつも通り、家で紗千に微笑む父と同じだった。
 十年前だろうか。
 父、軽井澤新太が、放送局の報道記者をやめる前だ。
 たった一度、食事の誘いのメッセージに返信がないだけで、なぜか紗千はその頃の父のことを思い出した。不思議だった。ほとんど思い出したことのない記憶だと思った。
 何故か不安のような雨粒が心に降るように思えた。

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