百三 不忍池(銭谷警部補)
過ぎ去ろうとする夏が午前の上野不忍池を冷やしていた。
モーニングを終えた時間帯で客は疎らだった。手前から二つ目のテーブルに石原は横顔で座っていた。
「おはよう。」
「おはようございます。」
わたしは席につきながらコーヒーを頼んで、タバコに火をつけた。
「すいません。収穫ゼロです。朝から見失いました。」
日比谷線の六本木駅で太刀川に似た人間を見つけたのだが、本人の確証ないまま追ってしまったが、よくよく確認すると別人だったというのである。
「今朝は太刀川は、いつもの時間にはいなかったようでした。」
石原は一日を失って、時間を無駄にしたことを悔いていた。わたしは、懐かしいものを見る気持ちになった。
「君はそういうけど、土台一人で尾行など無理な話しだろう。」
本当は一言目に、毎日ありがとう、それだけで嬉しいのだ、と言いたかった。が、成果の出る前に褒めるのは得意ではない。
「はい。しかし、気をつけます。」
そう言った石原は何故かいつもと風情が違う感覚がした。わたしは女性の顔面を見つめ返すのが苦手だ。中学校の頃からそのことは変わらない。
「すいません。」
「すいません?」
「眉ですよね。」
「まゆ?」
時間を挟んでやっとわかった。違和感は眉毛だった。それが今朝の変装の跡だ、ということが落ちてきた。
「いえ、昨日の今日なので、気になってやってみたんです。その自意識過剰だったかもしれません。」
「変装を。」
「今後も幾度も太刀川を追いたいので、顔バレのリスクだけ減らそうかと。でも中途半端な変装のせいで、視界を狭くしてしまい、見誤りをしました。」
石原の座席の後ろに芸人の隠し道具のようにボストンバックが置いてあった。変装というのは、無駄に嵩張る。あまり見せたくないと言う風情で石原が言ったので私は言葉を重ねなかったが、彼女なりの変装の道具、着替えやカツラが入ってるのかもしれない。
「何だか、不慣れですいません。」
「いや、ありがとう。」
わたしは思わずそう言った。
単純に変装したことについてではない。石原のその姿勢に自分の感謝があった。わたしが頼んだことをやるのではなく、わたしが頼みたいと思ってたことを、言葉を聞く前にやってくれたのだ。わたしの周囲から消えて行った、かつて刑事には当然存在した喜びが目の前にあった。
「ありがとう。」
わたしは恥じらいもなく言葉が出ていくのを感じた。脳で考えたものではない脊髄からのわたしの言葉だ。わたしは日頃、計算でこの美しい日本語を使いたくない、と思っていた。夏の終わりは、少し素直になれるのかもしれないと、なぜか思った。
「いえ、もっとがんばります。すいません。」
石原はまだ完成もしていない、自分の変装については語らず、奥床しい、空気を保ちながら、反省ではなく対策の弁をいくつか述べた。わたしはそれらに過去の経験からの助言をいくつか試みた。そういう会話の中でコーヒーが届いた。
「太刀川の交友関係について、もう少し調べてみました。」
「うむ。」
「意図は分かりませんが、経済関係の人間以外も、交流があるようです。」
尾行一日で、なぜそんなことが判るのだ、という質問をわたしは一旦飲みこんだ。小板橋は、これを始めるのに、質問だけの打ち合わせを三回は要求するだろう。自分で考えてない人間は会議ばかりを求める。
「たとえばですが、慈善のようなこともやっています。」
「慈善?」
先日の会話で、太刀川が慈善という言葉を出したのをわたしは思い出した。
「昨日の埼玉は多分それです。」
「うむ。」
「パラダイムを経営していた頃には慈善事業は、領域になかったですよね。」
パラダイムを経営していた頃に、太刀川が慈善事業などに手を出したことはありえない。そんな精神状態ではなかったはずだ。
「まあそうだな。」
「例えばなのですが病院関係とか、難病の人間の支援や、交通事故の被害者支援、犯罪被害者支援、そういう場所にも足を運んでいるようです。」
「やつはそういうインターネットの顔を消している。自分で発信をしてるわけではないだろう。どうしてそれを?」
「はい。太刀川龍一がネット上にアカウントのないのはおっしゃる通りです。」
「うむ。」
「ただ、逆に、彼が関わった慈善団体の側が地味にSNSなどにあげたりしているんです。」
わたしは驚いた。そんなものを拾う方法が想像できなかった。
「それを拾ったのか。簡単ではないだろう。検索してすぐ出るならば、今のように世の中がここまで太刀川を忘れないだろう。」
「地道なパソコン作業は大切だと警部補は仰ったかなと。」
「パソコンか。」
「いえ。Googleのほうで画像検索がリリースされたので、使ってみたのです。意外と拾えたので、自分も驚きました。」
「画像の検索?」
わたしは上野で饒舌に酔ったときに多くのことを嘯いた自分を恥ずかしく思いだした。自分なりに様々なことを調べてきていたつもりだったが、やはり一人の作業や、ものの見方には限界があった。そしてやはり、わたしはもはや古い人間だった。
「なるほど。」
「慈善団体側が、自分らのホームページに来訪者の写真をあげたりします。太刀川の個人名が記載されてはいませんが、集合写真のなかに太刀川が写っているものが幾つかありました。時季的にも、パラダイムを辞めた後です。」
「慈善団体側の、写真ということか。」
「太刀川の名前の検索では出てきません。画像検索で人物認識された場合にだけです。」
石原は、そういって、適切な位置に灰皿を置いた。
「それと。」
少し、石原は思うことがあるらしい。
「どうした?」
わたしはタバコを蒸しながら、伏し目にコーヒーの漆黒の細波のほうを見つめた。
「その、僭越かもですが」
「気を使わないでいい。我々は他に仲間はいない。」
仕事はできる奴が進める。どんなに若くても関係はない。
「はい。その、なにか、彼の中には必死さがあるように思えてなりません。」
「必死さ?」
「はい。必死に生きている、というか。のどかに、手ぶらで歩いているようにも見せているのですが。」
「……。」
「朝、六時からです。まだ検証していませんが、銭谷警部補のころから続けて毎日これだとすると異常です。」
「うむ」
「何よりあの若さで成功していると、遊びの方で普通は派手になります。それなのに、警部補が先日おっしゃったように、夜の街に全く向かわなくなった。」
「うむ。そうかもしれないな。」
「以前は、六本木の界隈でそれこそ夜な夜なの賑わいを呈していたようには思いますが。まだまだ遊びたい盛りだと思うのです。」
若い石原から、遊びたい盛り、と言うある種、冷めた言葉が出てきたのは私には意外だった。変装の後のせいか石原はスーツの襟が少しだけズレていた。
「加えて、やはり自分の中で腑に落ちて無いことがいくつかあります」
「例えば?」
「まず、インターネットを辞めているというのは本当なのか?これだけの人と会っていると逆に不便になる気がするのです。情報もとれない。」
「うむ。」
「あと、以前申し上げた部分に近いのですが、やはり、その地下鉄に乗ると言うところがちょっと不思議で。なんというか、金があるなら、タクシーで移動すればいいはずです...