実験番号 HSC2 008
ある日僕は夢を見た。
夢の中の夢のようなどこからかが現実か分かりずらい種類のものだ。
高校の卒業式。
僕らは同い年で、小学校では会話もしたことはないけれども、中学校を経て高校の三年の夏に再会した。お互いの卒業式の日に、初めて話したあの喫茶店で、もう一度待ち合わせたのだ。
お互い黒い筒に卒業証書を入れて、春が今そこに来ていた。
誰にでも平凡に当然のように訪れていいはずの、高校の卒業式だった。
輝く未来を前にして、青春の最後になるかもしれない、その日。
僕は約束通り、大学に合格し、彼女はアルバイトで貯めたお金で卒業旅行にいく。
僕たちが結ばれる、春。
その日、彼女は少し憂鬱な顔をしていた。
僕と会った時に、そんなことは一度だけだ。
たった一度だけだった。
「どうしたの?」
「ううん。」
「……。」
「天国って、あるのかな。」
「天国?」
「私、天国に行けるのかな。」
「どうして?」
彼女がそう言ってからしばらく沈黙があった。
春の陽射しが早咲きの桜の下だった。喫茶店から河川敷に向かう木々が桜なのだと僕は初めて知った。
しばらく沈黙が続いたのでぼくは、苦しくなってひといきで、
「どうしてそんな風にいうの?」
「川田木くん。今までありがとう。」
「なぜ?そんな言葉はいらないよ。」
「ごめんね。」
僕は言葉というものが、一度声になって終(しま)えば自分の体に戻らない永遠のエントロピーであることをなぜかその時に思った。
「諦めないでくれて、ありがとう」
と言った。
「どうして?何を」
「だって、一人で怖かったよね?痛かったよね?」
「そんなことない。怖いおもいをさせたのは僕の方だ。男として守れなかった。本当にすまない。僕はもっと早くから立ち向かうべきだったんだ。」
彼女は初めて僕に胸を預け泣いていた。肩が揺れる。彼女の高校の制服と、僕の学生服とが重なる。彼女の白く美しい手の先にさっき卒業したばかりの卒業証書の筒があった。
こんなに小さく愛おしい肩だったのかと心が震えた。そこには一人の弱い人間の一人があった。頬を伝う彼女の涙を知った。透明で冷たい、彼女が見てきた苦しい何かを洗うように流れた。土に落ちるまでの時間の止まったような悲しみを見ていた。
「ありがとう。川田木くん」
「ありがとうは僕の方だ」
「ごめんね。こんな風にせっかく大学も受かったのに」
「そんなことはないよ。僕は僕の好きな気持ちで今こうなってるだけだ。むしろ何も後悔なんかないんだ。」
「本当にごめんね」
「謝ったりしないで大丈夫だよ。卒業式ができてよかった。おめでとう。」
「うん」
彼女はその時僕を見つめた。そして、ふと
「わたし、天国に行けるかな?」
その言葉は、僕の胸を破るほど強く、言葉の最大の重みで響いた。
「天国にいけるかな。」
「もちろんだよ。行けるに決まってる。」
「天国で会っても、許してくれる?」
「許すなんて。僕こそもっと早くできていれば、また別の未来があったはずなのに。ああ、それだけは後悔だ。でも前を向いて、生きるしかないんだ。うん」
僕は全身で泣いていた。
「天国に行けたら、川田木君と会いたいな。いろんなお話をしたい。これまでゆっくりと話せなかったことをたくさん。まいにち、ひとつずつでもいいから。」
その会話を彼女とした日から、同じ場面を繰り返すうちにそれは、ほとんど現実となり、まるで今の僕の人生の一つになっている。
「大丈夫だよ。絶対に。天国に行っても毎日会えるから大丈夫だよ。」
「本当?」
「もちろんだ。心の中でいつもいてくれてる。ありがとう。僕が今生きて呼吸をしているすべての理由が、あなただから。」
僕がそういうと、彼女はまた沈黙を長くした。それは永久に声を失ってしまったかのような時間だった。そうして何日も何年も過ぎたかのような沈黙の後に、僕の世界で最も美しく優しいあの声で、
「ありがとう。」
とという言葉が聞こえた。
僕は、透明な涙が落ちたばかりの彼女の頬を見ていた。
「天国編」終