二一一 背中 (銭谷慎太郎)
「銭谷か。」
是永か?と言おうとして、言葉を飲んだ。信用しているとは言え、無駄に今隣に座る石原の前で名前を出す必要はない。
「そうだ。」
「動きがあった。」
「ありがとう。こんな深夜まですまない。」
「銭谷は、金石を覚えているか?」
覚えているのも何もむしろ、是永からその名前が出ることが意外だった。
「ああ。もちろんだ。」
「この所轄から本庁捜査二課に異動した。栄転したのに警視庁を五年ほど前にやめているはずだ。」
「そうだ。一緒に仕事をしたこともある」
隣で石原が聞き耳を立てたのがわかった。
「そうか。ちなみにその後、あいつと会ったりしたか?その、金石が刑事をやめてからだ。」
「…いいや、ない。」
「実は、今日おれは、奴のことを二回ほど見かけたんだ」
「何、見かけた?」
わたしは思わず声を強めた。
「いや、知っているならわかるだろう。あいつは、二メートルの巨体だ。顔は見えなかったがなんとも言えない、あの後ろ姿を見た気がしたんだ。顔までははっきりとわからなかった。十年以上も昔だからな。すこし別人のようにだいぶ変わった気がする。でもあの巨体は変わらない。あの風情を感じたんだ。」
「署の中でか?」
「ちがう。一度は、署の駐車場。もう一度は、とある病院だ。」
「病院?」
「河川敷、帝釈天の裏の江戸川で重傷を負ったら、どこに向かいやすいか?」
「金町病院だな」
「そうだ。一見そうだ。」
是永は意味を含んだ言い方をした。
「一見は、そうだがーー。」
「もし、意図が働くなら少し場所を変えるか。とすると、亀有病院だろうか。」
わたしは想像していたことを言った。
「そう。俺が見たのは亀有病院の前でだ。」
「……。」
「奴は、病院の前から堂々と入っていった。あの時間、人はほとんどいない。捜査には最も適さない体格だが、警備を突破するのにはもってこいだ。」
わたしは信じられない気持ちの中に何か、新しく興奮する気持ちが混ざっていくのが分かった。初めて迷惑メールが来た時と同じだ。それは金石という人間が生きているという証左を用意した時にだけわたしに訪れる、非常に特殊な感覚である。
(金石が槇村又兵衛の救出に向かっている?まさか?)
又兵衛の状況は深刻なはずだ。
ただ、金石が動いているなら、わたしが動くよりいいーー。
わたしの脳裏にそういう言葉が悲しくよぎった。
奴が動いて駄目なものはわたしでも同じく駄目だろう。それが実力だ。わたしは結局、組織での立場を選んでいる弱い人間だ。地位を捨て自分の実力を信じ仕事を進める金石に叶うわけがない。
「銭谷、大丈夫か?」
わたしの怨念を打ち破るように是永の言葉が電話の向こうで響いた。
「あくまで金石については確実な情報ではない。もう少し調べてみるから待ってくれ。場合によっては、俺ももう一度亀有病院に行ってみるかもしれない。」
「すまない。是永、無理はしないでくれ。」
「無理などしていない。」
「しかし」
「いいか、これは、俺が好きでやってるだけだ。そのことは忘れないでくれ。」
刑事の血がうごめく言葉だった。良き友を持っていることをわたしはほとんど知らないで生きてきていた。
「是永、すまん。なんと言っていいかわからない。いま、こちらは、別件の現場に向かっている。実はそちらもかなり重たい。」
石原がこちらを気にしているのが分かった。
「別件の現場なのか。この時間に大変だな。まあエースにはエースの仕事がある。そっちがまず大事だろう。わかった。動きがあり次第連絡する。」
「ああ。」
わたしは電話を切りながら、殺意の島に向かう目の前の現実の景色に戻った。金石からのメールや伝言はこのまま埋立地へ向かえと言っている。それに反して金石と思われる二メートルの巨漢が埋立地ではなく、河川敷の上流の槇村又兵衛のいる場所を探している。
「罪は川に流し、遠くの海に捨てたくなる。それが人間なんだ」
わたしは、もう一度、又兵衛老人の言葉を思い返していた。
第二部(終章)
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