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星空出版 HOSHIZORA PRESS

評論・連載

クレバス

下代沢侯二
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第 八 章 第7章 橋のない谷底を覗く

第7章 橋のない谷底を覗く
― クレバスとは何か

ここまで、二つの分離を描いてきた。

一つ目は、五百年前に始まった分離。複式簿記と株式会社が生み、産業革命が固定し、教育とメディアが見えなくした、資本家と労働者の分離。

二つ目は、今まさに起きている分離。AIの登場による、次元の異なる分離。

この二つ目の分離を、私はクレバスと呼んでいる。だが、まだその正体を正確には描いていない。「AIが判断を代替する」という話はした。だがそれだけでは、クレバスの本当の恐ろしさは伝わらない。

クレバスの正体を理解するために、まず一つ目の分離を振り返る。

資本家と労働者の分離には、一つの重要な特徴があった。両者は、同じ経済圏の中にいた。資本家は労働者を必要としていた。工場を回すために。商品を買ってもらうために。労働者は資本家を必要としていた。賃金を得るために。搾取はあった。格差はあった。だが、両者は互いに依存していた。

この依存関係があるかぎり、分離には限度がある。労働者を殺してしまったら、工場が回らない。賃金をゼロにしたら、商品を買う人間がいなくなる。だから資本家は、搾取しつつも、労働者を生かし続ける必要があった。

これが、壁に梯子がかかっていた理由でもある。労働者を完全に切り捨てることができない以上、一部の労働者が壁を越えて資本家側に来ることも、構造として許容されていた。

AIが作るクレバスは、この前提を破壊する。

どういうことか。

AIが判断を代替するとき、何が起きるか。企業は、判断できる人間を雇う必要がなくなる。報告書を書ける人間、企画を立てられる人間、データを分析できる人間。これまで「代替不可能」とされてきたホワイトカラーの仕事が、AIで代替可能になる。

第2章で、産業革命が肉体労働者の「代わりはいくらでもいる」状態を作ったと書いた。AIは、知的労働者に同じことをする。いや、もっとひどいことをする。

肉体労働の代替には、まだ機械が必要だった。機械を買い、工場を建て、維持する。コストがかかる。だがAIの代替は、ソフトウェアだ。コピーに一秒もかからない。一人分の仕事を代替するAIを作れば、それを百万人分に複製するのは、ほぼタダだ。

ここに、クレバスの本質がある。

産業革命の分離には、橋があった。労働者は資本家に必要とされていた。だからこそ、労働組合が力を持てた。ストライキが意味を持った。「俺たちが働かなければ、お前の工場は止まる」と言えた。必要とされているかぎり、交渉の余地がある。

AIが作る分離には、この橋がない。

ある企業の経営者の立場で考えてみてほしい。マーケティング部門に十人の社員がいる。企画を考え、文章を書き、データを分析し、レポートを作る。年間の人件費は六千万円。

ここにAIが入る。企画の素案を出し、文章を書き、データを分析し、レポートを作る。月額数万円。十人を二人に減らせる。残った二人は、AIが出した結果を確認し、最終判断を下す。

八人は不要になる。

この八人が「ストライキをする」と言ったところで、経営者は困らない。AIがいるのだから。「賃上げしろ」と言ったところで、AIの方が安いのだから。労働者が交渉力を持てたのは、「代わりがいない」からだった。代わりがいる。しかも、文句を言わず、休まず、二十四時間働く代わりが。

これが、橋のない谷だ。

第一の分離では、谷の向こう側に行きたければ、梯子を登ればよかった。努力して、学んで、壁を越える。可能性は低くても、ルートは存在した。

クレバスには、そのルートがない。なぜなら、谷の向こう側にいる人間は、こちら側の人間をもう必要としていないからだ。梯子をかける理由がない。橋を架ける理由がない。

必要とされない。これが、搾取より残酷な状態だ。

搾取は、少なくとも関係の中にある。搾取する者は、搾取される者を必要としている。だが「不要」には、関係すらない。無視だ。存在しないのと同じ扱いだ。

産業革命期の労働者は、搾取されていた。だが存在は認められていた。工場の歯車として。AIの時代に不要になった人間は、歯車ですらない。機械の側に、人間の形をした部品が必要なくなったのだ。

これは一部の職業の話ではない。構造の話だ。

翻訳者がAIに仕事を奪われる。イラストレーターがAIに仕事を奪われる。プログラマーがAIに仕事を奪われる。こういう話は、もう何百回も聞いただろう。だが個別の職業の話をしているのではない。

「人間が判断する」という前提の上に成り立っていた社会構造そのものが、崩れようとしている。その崩れ方が、過去のどの技術革新とも違う。壁が高くなるのではなく、地面が割れる。割れた地面の向こう側には、こちらを必要としない世界がある。

だから私はこれをクレバスと呼ぶ。

氷河のクレバスは、落ちたら終わりだ。壁を登ろうにも、氷は滑る。叫んでも、上にいる人間には聞こえない。聞こえたとしても、ロープを下ろす義理がない。

前書きで書いた。クレバスは表面からは見えない。雪に覆われて、平らな地面が続いているように見える。今がまさにその状態だ。多くの人間は、自分の足元が割れ始めていることに気づいていない。

次の章で、クレバスのこちら側と向こう側を、具体的に描く。

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