第3章 檻の中の鳥に空の話はしない
― 特権を守るための教育
学校で何を教わったか、思い出してほしい。
国語、算数、理科、社会。中学に上がれば英語が加わり、高校では古典や物理や世界史が並ぶ。大量の知識を詰め込まれ、テストで吐き出し、点数で並べられる。それを十二年間、繰り返す。
ほとんどの人間は、この十二年間に疑問を持たない。カリキュラムは当然のものとして受け入れる。国語ができれば文章が読める。算数ができれば計算ができる。理科で自然を知り、社会で歴史を知る。どれも必要なことだ。文句のつけようがない。
だが、ここで一つだけ、奇妙なことに気づいてほしい。
十二年間で、複式簿記を教わった人間がどれだけいるだろうか。
第1章で書いた通り、複式簿記は世界の権力構造を変えた発明だ。五百年前から今日まで、あらゆる企業、あらゆる国家の財政、あらゆる経済活動の土台にある技術だ。これを知らずに社会に出るのは、文字を知らずに図書館に入るようなものだ。
なのに、教えない。
株式会社の仕組みはどうか。教科書には載っている。「株式を発行して資金を集める会社」。三行の説明。だが第1章で書いたような本質——「リスクを分散しながら意思決定を集中させる仕組み」「形式上は平等だが実質的には非対称な構造」——は、どこにも書かれていない。
「お金を働かせる」という概念はどうか。投資、複利、配当。資本家が資本家であり続ける根幹の技術だ。授業で聞いたことがあるだろうか。
ない。ほとんどの人間は、ない。
ここまでなら、「教育に改善の余地がある」という穏やかな話で済む。予算の問題、カリキュラムの過密、教員の専門性。いくらでも理由はつけられる。
だが、もう少し考えてほしい。
学校の構造そのものを見てみる。朝八時に登校する。チャイムが鳴ったら席に着く。先生が話す。生徒は聞く。質問は手を挙げてから。四十五分経ったらチャイムが鳴り、次の科目に切り替わる。昼休みは決められた時間だけ。掃除をして、帰る。
これを十二年やった人間が、社会に出てどうなるか。
始業時間に出勤する。上司が指示する。部下は従う。質問は許可を取ってから。昼休みは一時間。仕事が終わったら帰る。
学校と会社の構造が、まったく同じだ。時間管理、指示命令系統、評価制度。十二年かけて体に染み込ませた行動パターンが、そのまま四十年の労働に接続している。
ここまで来ると、さすがに疑問が湧いてくるはずだ。これは本当に偶然なのか、と。
偶然ではない。
1870年、イギリスで初等教育法が制定された。すべての子どもに教育を。理念は美しかった。だがその背景にあったのは、産業革命後の工場が「読み書きと計算ができ、時間通りに出勤し、指示に従う人間」を大量に必要としていたという事実だ。学校は、良い国民を作るために作られた。もっと正確に言えば、良い労働者を作るために設計された。
教育の話を続ける。
近代公教育が「労働者の育成装置」として設計されたことは、歴史的な事実だ。だがここで重要なのは、二百年前の話ではない。その設計が、今も変わっていないということだ。
令和の日本の学校を見てみればいい。
小学校で足し算を教える。中学校で方程式を教える。高校で微分積分を教える。だが「この百万円を年利五パーセントで運用すると、十年後にいくらになるか」という計算は教えない。複利の計算は微分より簡単だ。なのに教えない。
国語で夏目漱石を読ませる。太宰治を読ませる。感想文を書かせる。だが「契約書の読み方」は教えない。「利用規約のどこに罠があるか」は教えない。社会に出た瞬間に必要になるリテラシーが、十二年間のカリキュラムからすっぽり抜け落ちている。
社会科で三権分立を教える。選挙の仕組みを教える。だが「なぜ自分の給料はこの金額なのか」「会社の利益はどこに消えているのか」「労働者と株主の取り分はどういう構造で決まるのか」は教えない。
これだけのものが抜け落ちているのに、誰も不思議に思わない。なぜか。抜け落ちていること自体を知らないからだ。
檻の中の鳥は、空を知らなければ、檻を檻だと思わない。
教育が意図的に設計されていると言うと、陰謀論のように聞こえるかもしれない。誰かが密室で「労働者には投資を教えるな」と決めたわけではない。そこまで単純な話ではない。
だがもっとたちの悪いことが起きている。仕組みが自動化されているのだ。
文部科学省の官僚は、学校で教育を受けた人間だ。教員も、学校で教育を受けた人間だ。教科書を作る出版社の社員も、教育委員会の委員も、全員が同じシステムの中で育った。彼らは自分が受けた教育を「正しい教育」だと信じている。疑う理由がない。自分がそれで育ったのだから。
つまり、もはや誰かが意図的に隠しているのではない。隠されていることすら忘れられている。教える側が、教えるべきことを知らない。檻の中で育った鳥が、次の世代の鳥に飛び方を教えられるはずがない。
この自動化された無知の再生産こそが、教育の最も恐ろしい機能だ。
資本家の側はどうか。彼らの子どもは、学校の外で学ぶ。家庭の食卓で、投資の話を聞く。親の会社の決算書を見る。夏休みに海外に行き、異なるビジネスの現場を見る。大学ではMBAに進み、財務モデルを組む。
同じ「教育」という言葉を使いながら、まったく別のものを受け取っている。
公教育は全員に同じ教育を与えることで平等を実現した、と言われている。だが実際に起きていることは逆だ。全員に同じ教育を与えることで、「その外にある知識」を持つ者と持たない者の差が固定されている。同じ教室で同じ授業を受けること自体が、格差を再生産する装置として機能している。
第1章で書いた。壁は、見えにくくなった分だけ、越えにくくなった、と。
教育という壁は、壁に見えない。それは「チャンス」の顔をしている。「努力すれば報われる」という物語の形をしている。だが、何を努力すべきかを知らない人間に、努力の方向は見えない。
檻の中の鳥に空の話はしない。空があることを教えなければ、鳥は飛ぼうとすらしない。