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星空出版 HOSHIZORA PRESS

評論・連載

クレバス

下代沢侯二
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第 12 章 第11章 消えた椅子に気づかない人たち

第11章 消えた椅子に気づかない人たち
― クレバスの向こう側に落ちた業界

第三部は、現実の話をする。

第一部と第二部で、構造を描いた。五百年の分離。AIが作るクレバス。不可逆の断裂。だがここまではすべて、地図の話だ。地図は現実ではない。現実は、今この瞬間も、誰かの足元で起きている。

具体的な名前を出す。

翻訳業界。2023年まで、実務翻訳者の単価は一ワードあたり十円から十五円が相場だった。企業のマニュアル、契約書、プレスリリース。正確さが求められる仕事だ。十年以上の経験を積んだ翻訳者が、月に五十万円から七十万円を稼いでいた。

2024年、大手翻訳会社が次々と「AI翻訳+人間レビュー」モデルに切り替えた。AIがまず翻訳し、人間がチェックする。翻訳者の仕事が「翻訳」から「校正」に変わった。単価は一ワード三円から五円に落ちた。同じ時間働いて、収入が三分の一になった。

翻訳者たちは抗議しただろうか。した。SNSで声を上げた。業界団体が声明を出した。だが何も変わらなかった。第10章で書いたストライキと同じだ。企業は困らない。AIが翻訳するのだから。

ここで起きていることを、正確に描写したい。

翻訳者は仕事を失ったのではない。仕事はある。デスクもある。パソコンもある。毎朝同じように画面に向かっている。何も変わっていないように見える。だが、この翻訳者が十年かけて積み上げてきた技術の「価値」が変わった。

通貨に例えると分かりやすい。

あなたが十年かけて一千万円を貯めたとする。通帳を見れば一千万円と書いてある。安心する。だがある日、猛烈なインフレが始まる。昨日まで百円だったパンが三百円になる。一千万円の数字は変わっていない。だが買えるものが三分の一になっている。あなたは貧しくなった。通帳の数字は一文字も変わっていないのに。

AIは、スキルのインフレを引き起こしている。

翻訳者の技術は消えていない。十年分の経験も、語彙力も、文脈を読む力も、すべて本人の中にある。通帳の数字は変わっていない。だが、その技術で「買える」もの——つまり、その技術と引き換えに得られる報酬——が暴落している。AIが同じことを、ほぼタダでやるからだ。

これがクレバスの落ち方だ。ある日突然、職を失うのではない。自分が持っている通貨の価値が、日に日に目減りしていく。通帳を開けば同じ数字が並んでいる。だがその数字で買えるものが、昨日より少なくなっている。

同じインフレが、あらゆる業界で同時に起きている。

イラストレーション。ゲーム会社や広告代理店が、コンセプトアートの初期段階をAIに任せ始めた。一枚五万円で発注していた仕事を、社内のデザイナーがAIで出すようになった。フリーランスへの発注が、月に十本あったのが三本になった。イラストレーターの画力は変わっていない。だがその画力という通貨の購買力が、三分の一に落ちた。

プログラミング。ウェブサイトの構築、業務システムの開発。一件百万円で受注していた案件を、クライアントが社内でAIに作らせ始めた。完璧ではない。だが八割の品質で十分な場面が、実は大量にある。プログラマーの技術は変わっていない。だが「八割の品質」の相場が暴落した。

ライティング。ウェブ記事、商品説明、メールマガジン。一本三万円で書いていた記事が、一本五千円の仕事になった。AIが書いた文章を手直しする作業。ライターの語彙力も構成力も健在だ。だがその通貨で買えるものが、六分の一になった。

士業ですら例外ではない。契約書のレビュー、判例の調査、特許明細書の作成。ジュニアスタッフが何時間もかけていた作業を、AIが数分で終わらせる。ジュニアの仕事が消えるということは、ジュニアが育たないということだ。育たなければシニアにもなれない。通貨の価値が落ちるだけではない。通貨を鋳造する工場そのものが止まる。

五つの業界を並べた。だがこれは五つの例外ではない。一つのパターンだ。

あなたが何年もかけて身につけたスキル。それは確かにあなたのものだ。誰にも奪われていない。通帳を開けば同じ数字が並んでいる。だが世界の側が変わった。あなたの通貨で買えるものが、静かに、確実に、減り続けている。

なぜ多くの人がこのインフレに気づかないのか。

理由は単純だ。インフレは数字を変えないからだ。

ハイパーインフレが起きた国の市民を思い出してほしい。ジンバブエでもワイマール共和国でもいい。市民の手元にある紙幣の枚数は減っていない。むしろ増えている。数字だけ見れば、昨日より金持ちになっている。だがパン一個が百万ドルになっている。数字が変わらないから、あるいは数字が増えているから、自分が貧しくなっていることに気づくのが遅れる。

スキルのインフレも同じだ。翻訳者の技術は落ちていない。むしろAI校正の経験が加わって、スキルの「数字」は増えている。イラストレーターもAIツールを使いこなせるようになった。スキルは増えた。だが、そのスキルで買えるものが減っている。

通帳の数字を見て安心している間に、通貨の価値は落ち続ける。

そして最もたちが悪いのは、通貨を発行している側——仕組みを所有する側の人間たちが、このインフレに気づいている、ということだ。気づいた上で、自分たちはインフレの影響を受けない場所に立っている。第8章の三人目だ。彼らが作った仕組みそのものが、他人の通貨を暴落させている。彼ら自身の通貨は「仕組みの所有」であり、インフレの対象ではない。

クレバスの向こう側に落ちた人間は、自分の通帳を握りしめている。数字は変わっていない。だから大丈夫だと思っている。

大丈夫ではない。

次の章では、このインフレの中で、別の通貨を鋳造した人間たちの話をする。

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