舟が岸に触れると、男はゆっくりと顔を上げた。深く刻まれた皺の一つひとつに、いくつもの夜明けが畳み込まれているようだった。「乗りなさい」と、男は短く言った。問いも、答えも、いらないという声だった。
私は舳先に足をかけた。木のぬくもりが、足の裏から伝わってくる。舟は思いのほか静かに、岸を離れた。振り返ると、立っていたはずの渡し場が、もう靄に溶けて見えない。
「向こう岸には、何があるのですか」
男は答えず、ただ櫂を動かし続けた。ひたり、ひたり。その音だけが、世界に残された唯一の言葉のようだった。
靄が、わずかに薄くなる。空の端が、桃色に滲みはじめていた。夜と朝の、ちょうど境目。──その光のなかへ、舟は静かに進んでいった。