第 一 章
朝靄
川面に朝靄が低く垂れていた。岸に立つと、足元から水が呼吸しているのがわかる。まだ夜の冷たさを残した風が、襟首をくすぐって過ぎていった。
渡し場の杭には、古い艫綱が結ばれている。誰が結んだものか、もう誰も知らない。それでも綱はそこにあり、舟を待つ者を、静かに待っていた。
「今日は、来るだろうか」
声に出してから、私は少し笑った。来るも来ないも、決めるのは私ではない。渡し守は気まぐれで、しかし一度も、本当に必要な朝を見逃したことはなかった。そういう人だと、村の年寄りたちは口を揃える。
靄の向こうで、櫂の音がした。ひたり、ひたり、と水を撫でる音。やがて舳先が白い帳を割って、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。私は思わず一歩、前へ出ていた。
第 二 章
渡し守
舟が岸に触れると、男はゆっくりと顔を上げた。深く刻まれた皺の一つひとつに、いくつもの夜明けが畳み込まれているようだった。「乗りなさい」と、男は短く言った。問いも、答えも、いらないという声だった。
私は舳先に足をかけた。木のぬくもりが、足の裏から伝わってくる。舟は思いのほか静かに、岸を離れた。振り返ると、立っていたはずの渡し場が、もう靄に溶けて見えない。
「向こう岸には、何があるのですか」
男は答えず、ただ櫂を動かし続けた。ひたり、ひたり。その音だけが、世界に残された唯一の言葉のようだった。
靄が、わずかに薄くなる。空の端が、桃色に滲みはじめていた。夜と朝の、ちょうど境目。──その光のなかへ、舟は静かに進んでいった。
― 了 ―